世界の片隅ニュージーランドのさらに片隅でコミュニティーから離れ、自由気ままな生活を愛した人々のストーリーをまとめたOUTSIDERS ‐ Stories from the Fringe of New Zealand Society – 著 Gerard Hindmarsh というニュージーランドで2012年に発行された本を図書館から借りてきました。
驚いたことに、この本のChapter SixにはKeiko Agatsumaという日本人女性のストーリーが7ページに渡り記されていました。
目次を見たとき、ワーキングホリデーの先人がヒッピー生活を満喫してたのかな?
などと考えてベージをめくると、Agatsumaさんの話はニュージーランドでワーホリ制度が始まる8年も前の1978年のことだと記されていました。
しかも
日本から1人でクライストチャーチに観光ビザで渡り、南島を旅行した後スチュアートアイランド (Stewart Island:以下、スチュアート島) まで移動して島の洞穴に住み、最終的に強制送還になった日本人女性だという
誰もが
(;゚ω゚)ェ……………….
となりそうな内容。
ネットで検索してみると、ニュージーランドのニュースサイトStuffにはKeiko Agatsumaさんの写真付き記事Curious case of Stewart Island’s cave woman (直訳: スチュアート島の奇妙な洞穴女) もありました。
Keiko Agatsumaさんに関する記述には下記のような気になるキーワードが満載。
- 1970年代(=昭和40-50年代)
- ニュージーランド
- 既婚日本人女性
- 暴力を受けていた
- 日本の順応社会を嫌っていた
- 一人旅
- 海外旅行
- 英語はカタコト
- 不法滞在
- 洞穴に住む
想像力が追いつかなかったので、Keiko Agatsumaさんを軸に当時の時代背景と経済の視点を織り交ぜながら調べた事を当ブログで、前編、後編に分けてご紹介していきたいと思います。
前編:当時の世界・日本・ニュージーランドのようす(本稿)
後編:吾妻恵子が辿ったニュージーランド (近日公開予定)
調べるうちに分かったことですが、Keiko Agatsumaさんの名前は漢字で吾妻恵子。
また本OUTSIDERSを含め、Stuffの記事でも彼女がニュージーランドに渡航したのは1978年と記されていますが、当ブログではこれに異を唱え1977年が正確であり、年齢にして40歳の時だったとします。(理由は後編冒頭に記します)
そんな彼女が日本へ強制送還され帰国後に公で唯一確認できたコメントがこちら。
「こんなきれいな国で生活していただけ。なぜ警察に捕まったのかわからない」
2024年の今もご健在であれば、米寿を祝う歳になろうかという頃ですが吾妻さんの近況を知る術はありませんでした。
1950-70年代 時代背景
吾妻さんが多感な10代から大人としての責任を持つ30代を過ごした1950-70年代は、政治、経済、社会、文化など、様々な分野で現代社会の礎となるような歴史的な出来事が多く起こった激動の時代であり、また多くの日本人にとって海外旅行が憧れから手の届く距離にまで近づいた時期でもあったようです。
1950-70年代:世界
- 先進国の高度経済成長
- アメリカとソ連が主導する東西冷戦
- 核戦争勃発の一歩手前までいったキューバ危機
- ベトナム戦争・朝鮮戦争
- 2度のオイルショック:世界的な景気後退・インフレ加速
- ニクソンショック:ブレトン ウッズ体制崩壊→新たな体制の構築
1950-70年代:日本
- 田中角栄、佐藤栄作といった今でも高知名度の人物が首相を務めて超高度経済成長
- 世界第2位の経済大国になる
- 同時に高度成長に起因した社会問題が高まった時期でもある
- 学生運動が隆起・活発化:安保闘争やベトナム反戦運動が展開
- 沖縄返還
- ジャンボジェット機登場+団体割引「バルグ運賃」導入で旅行代金が大幅引下げ
- 成田空港 開港
またこの時代は、Women’s liberation movementという女性による女性たちの解放運動が欧米社会を中心に隆起した時期で、日本でも「ウーマンリブ運動」という、女性が男性と平等・対等の地位や自分自身で職業や生き方を選べる自由を獲得しようとする社会運動がおきていたり、恋愛結婚する人の割合がお見合い結婚をする人の割合を上回ったりと、女性を取り巻く環境が大きく変わり始めた時代でもあったようです。
1970年には女性ファッション誌「anan」、翌71年には「nonno」が創刊され、それら雑誌を片手に一人旅や少人数で旅行する女性を指すアンノン族という言葉が流行り社会現象化。
anan創刊2号目では、四国女3人旅レポートなる特集が組まれていて「ムスメが旅に出るということは、親不孝(アバンチュール)をしてみたいナってこと」「お酒ものんでみたい」「行き先を四国にしたのには深い理由はないのです」などと書いてあるようです。
また吾妻さんがニュージーランドへ旅立つ5年前となる1972年には、女性の視点から平和や差別なき社会の実現、女性の自立を訴え、「家事と育児は女性」とした固定的な「性別役割分業」等に異を唱えた雑誌「あごら」が創刊されるなどし、この時代の女性たちの「自由」や「解放」などをキーワードとする動きが垣間見れます。
文化
- カラーテレビの普及
- 東京タワー完成
- 東京オリンピック開催
- ジャンボ機就航 (従来の3倍近い約350~450席を収容するボーイングB747型機)
- 海外旅行「1人年1回だけ」の回数制限撤廃
- 外貨持ち出し枠の撤廃(それまでは持ち出し外貨$500迄)
- 欧米・アジア22か国貧乏旅行「何でも見てやろう」小田実著がベストセラー
- ロックンロール:エルビス プレスリー
- グループサウンズ: ビートルズ
- アート:アンディ ウォーホル
- ヒッピー
- サブカル
1950-70年代:ニュージーランド
- 1950年代 移民流入増加。都市化
- 1953年 エドモンド ヒラリー($5札の人) 世界初エベレスト登頂
- 1954年 外資規制緩和
- 1960年 マオリ部族の土地所有権を認める「ニュージーランド土地法」制定
- 1967年 通貨切り替え NZポンドからNZドルへ
- 1967年 羊毛価格暴落による不況
- 1973年 オイルショックを発端にイギリスEEC加盟でNZは経済危機
- 1974年~1980年半ばまで不法移民の排除強化
- 1975年 国民党政権発足→経済改革開始
- 1977年 Beehive (NZの国会議事堂)完成
ニュージーランドの通貨は1840 -1967年まで今日使われているNZドルとセントではなく、ポンド、シリング、ペンスを使っていました。(動画はポンドからドルへの通貨切り替えに向けた1967年のニュージーランド政府によるTVコマーシャル)
また50年代は生活を豊かにする象徴として世界的に洗濯機と冷蔵庫が急速に普及した時期ですが1959年のニュージーランドでの普及率は冷蔵庫54%、洗濯機57%だったと記されています。
この普及率を当時終戦14年が経過した日本と比べるとどうだったでしょうか?
1959年(昭和34年)の日本における普及率は冷蔵庫6.1%、洗濯機24.8%だったようで圧倒的に日本のほうが低かったことが伺えると同時に60年代に起こった日本の高度経済成長がいかに爆発的だったかを想像するに足りる一例だと言えます。
吾妻さんがニュージーランドに渡航した1977年は、ニュージーランド国内で不法滞在する移民排除の動きが強くみられていた時期でもありました。
「不法移民の排除」と聞くと、ビザ無しで住んだり働いていたなら仕方ない と考える人もいるでしょうが、当時は今ほど管理徹底がされておらずビザに厳しくなかったという、ふわっとしていたのが実情。そこに不況の風が吹き荒れ失業率が高まったため、政府は白人の生活を守るために被白人(主にポリネシアの人々)を強制排除したというニュージーランド史の闇の部分。
これはDawn Raidsと呼ばれ人々が寝静まっている夜明けに移民が住む家を警官と入国管理官が突然訪問して住人を叩き起こし、住人全員のIDとビザを確認し、持っていない人は即拘束。起訴されて3ヶ月間の就労ビザ(延長不可)発給または即強制送還されるというものでした。
表面上は国籍を問わず有効なビザを持たずに不法滞在している全ての人が対象でしたが、実のところ厳しい取り締まりを受けたのは被白人だったことが1985年の調査で明らかになっています。
ポリネシアの人々およびアメリカ&イギリスの人々による不法滞在者はそれぞれ全体の1/3程と同じような割合だったにも関わらず、起訴されたポリネシアンの割合は全体の86%、アメリカ&イギリス人はたったの5%だったと報告されています。そして2021年には時の首相、ジャシンダ アーダーン氏がニュージーランド国として正式にポリネシアンコミュニティーに対してDawn Raidsを謝罪しています。
吾妻さんがニュージーランドに渡航し観光ビザの期限がすぎても滞在していた1977年‐78年のニュージーランドはまさに被白人の不法滞在者に対してこのような動きを見せていた時代でした。
1950-70年代:日本とニュージーランドの経済関係
- 1955年 NZ首相による初訪日 ‐ Sidney Holland首相(当時)
- 1957年 日本首相による初訪NZ ‐ 岸信介首相(当時)
- 1958年 日本 ‐ ニュージーランド貿易条約締結
- 1959年 日本からニュージーランドへの輸出総量25%増
- 1966年 紀伊國屋でニュージーランド食品展開催
- 1967年 在ニュージーランド日本国領事館設立(オークランド)*大使館設立は1938年
- 1970年 岡本太郎の「太陽の塔」でも有名な大阪開催の世界万博にニュージーランド館が登場
- 1970年 日本‐ニュージーランド両国のビザ発行手数料免除(ビザ廃止協定)の取り決め
- 1971年 Tiwai Pointで住友化学、昭和電工とRio Tintoの合弁会社NZASのアルミ製錬所が操業開始
- 1971年 トヨタ、ホンダ、マツダ、三菱、日産が自動車組立工場を設立
- 1973年 皇太子明仁(のちの平成天皇)と美智子皇太子妃が訪ニュージーランド
- 1973年 日・NZ 2国間初の姉妹都市提携 (岡山県倉敷市 ‐ クライストチャーチ)
- 1974年 JNZBC(Japan New Zealand Business Council)設立
- 1974年 リンナイ ニュージーランド支社設立
- 1976年 日本‐オークランド‐ウェリントン‐ダニーデン ルートのコンテナ船就航
- 1976年 在NZ邦人数1,173名 (NZ国税調査 ‐ 日本生まれのNZ在留邦人数)
ソース:New Zealand Government – Teara1, Teara2, NZ Official Yearbooks, 日本 – 外務省
日本人のニュージーランド観光
- 1973年 ニュージーランド観光局初となる非英語圏(東京とフランクフルト)にオフィス設立
- 1973年 狩猟目的でNZに渡航した日本人グループがクライストチャーチ空港にあった銀行の支店で多額の現金を両替したため支店が用意していたNZドルが全て売り切れたという記録が残っている
- 1973年 訪NZ日本人観光客の平均滞在日数は5.7日
- Blue ribbonと呼ばれたルート:オークランド‐ロトルア、クライストチャーチ‐ クィーンズタウン‐ ミルフォードサウンドを利用する邦人観光客は2000年代初頭まで右肩上がり
ニュージーランド政府公式記録のサイドストーリーには、「高額消費する日本人観光客の嗜好に合わせるために食べ物の味付けを濃くしたり、土産品を上品に包んだりする必要があった」との記述もあります。
味付けを日本人の嗜好に寄せて濃くした!? とは意外に思いましたが、漬物好きな人が多い時代イメージだから、足りなかったのは塩味かな?
商品を包むスキルは。。現代に継承されていないように思う。 必要姓は感じた。しらんけど。って事か?
1977年に訪NZした推計日本人数
正確な数を知ることはできませんでしたがNZ政府の公式記録を基にすると、1977年には吾妻さんを含めおよそ9,400~23,500人程の日本人が観光目的でNZを訪れたと考えられます。
上記の数字だけ見ると、それほど日本人観光客の誘致に成功しているように見えませんが、1971年にはすでに日本語の刊行物が用意されていた事などから、よほど飛ぶ鳥を落とす勢いの経済成長が眩しく見えていて、実際に一人当たりの散財額が大きかったという事なのでしょう。
当時のお金の価値
ニュージーランド
インフレ上昇率をもとに計算すると1970年、75年、77年当時のNZ$100は2024年のいまの価値でいうと下記のようになります。
$100の価値 | 1970年 | 1975年 | 1977年 |
インフレ上昇率 | 1852.89% | 1100.32% | 797.62% |
2024年 | $1,953 | $1,200 | $898 |
そして1975年当時のニュージーランド平均収入を2024年の価値に換算すると以下のようになります。
NZ | 1975年 | 2024年の 価値に換算 |
最低時給額 | $1.95 | $23.42 |
平均時給額 | $4.52 | $54.26 |
平均週給額 | $95 | $1140.95 |
最低時給を見ると1975年と2024年の今で最低時給の価値はほぼ等価です。
また平均週給を平均時給で割ると1週間の労働時間は21時間。週5日労働=1日約4時間。週4なら1日約5時間労働です。
私がニュージーランドに移り住んで間もない頃に老人から聞いた話では、70年代は店も15時頃には閉まり、バーも17時には閉まっていたそうなので、週労働21時間なんて数字も真実味があります。
2024年の現代を生きる我々には古き良き時代に見えますが、きっと1975年にリタイヤして第二の人生を過ごしているような人々にインタビューすれば、それでもきっと「昔は良かった」と目を細めて答えそうですが 笑
さて、ここにニュージーランド航空が1970年に出した広告があり当時の運賃が記載されています。
広告は若者を対象とした特別キャンペーン価格を打ち出したもので、香港orシンガポール経由、欧州or中東行、またはL.A.経由U.K or 欧州行のエコノミークラスがNZ$235引きのNZ$397.50で買えるというもの。(=通常価格$632.50)
2024年の価値でいうと、この広告のスペシャル価格はNZ$7,770。通常価格はNZ$12,360ということになり、やはり飛行機は非常に高価な乗り物であった事がわかります。
余談ですが1975年当時、ニュージーランドに登場して間もなかった26インチのカラーTVはNZ$840と給与約9週間分の値段(今の価値でNZ$10,082.65)。
1976年6月にニュージーランド1号店が開業したマクドナルドのビッグマック単品は75セント。2024年の価値でNZ$9.01(実際の2024年ビックマック単品売価はNZ$9.6)でした。
日本
1975年当時の日本の給与についても見てみました。
為替レート
当時、外国旅行をすると言ったらUSドルを持っていく事が一般的だったと思われます。
そして1977年の年間平均レートは1USD = 260円だったそう。
当時の需要を考えると、日本国内でニュージーランドドルの現金を直接購入できたとは考えにくいので、日本人観光客の多くはニュージーランドに到着した後、USドルの現金を空港や町中の銀行でNZドルに両替したか、またはUSドル建てのトラベラーズチェックを持って渡航したと思います。
NZドルが現在の変動相場に移行したのは1985年3月のことなので、本稿に該当する時代のNZドル為替相場は米ドルに準拠した固定相場制でしたが、1971年のニクソンショック以降、世界的に対USドルで自国通貨を切り下げる動きが見られていた時期でもあります。
イギリスの中央銀行BoE (Bank of England) の記録をみるとNZドルの切り下げが行われていることが見てとれ、吾妻さんがニュージーランドに来た1977年8月頃の相場は、1NZD=1.025USDくらいの相場感だったようです。
円からNZドルへ両替をするために、
円 → USドル → NZドル
と都度それなりの手数料がかかっていたと考えられるので、
1NZD =260円+20円くらい、またはそれ以上の価値があったかもしれません。
ニュージーランドで3ヶ月旅行するのに、宿や移動、食事や観光などで現地人の週給相当の予算が毎週必要だったとするなら、$95 = 26,600円 x 12週間 =319,200円 = 現代の価値で約65.8万円が必要だったことになります。吾妻さんの場合は、3ヶ月旅行した後にスチュワート島へ渡り、そこでさらに月日を過ごしているので、航空運賃を除いた滞在費用だけでも現代の価値にして80万円程度以上の現金が必要だったのではないかと推測します。
日本からクライストチャーチまでの移動経路
本OUTSIDERSには、我妻さんは日本を発ち、クライストチャーチに降り立ったとしてありますが、どういうルートだったのでしょうか?
日本発のルート
日本とニュージーランドをつなぐ飛行機の直行便(乗り換え無しという意味)が就航したのは1980年7月4日。JALとニュージーランド航空によるコードシェア便で、成田 ‐ フィジー ‐ オークランドのルートだったようです。(2024年の今はFiji Airwaysがこのルートで飛んでますね)
ですから、吾妻さんが訪NZした1977年には乗り換えの経由便しかなかったということになります。
アジア経由
下記の写真は1977年よりも5年古い1972年に発行されたニュージーランド航空の時刻表。
この時刻表の中の航路をみると
1972年の当時、ニュージーランド航空のクライストチャーチ発着便は シドニー or ブリスベン経由 香港行きまでしか飛んでいないことが分かり、東京 ‐ 香港間は他の航空会社を利用する必要があったことがわかります。
1: 東京 ‐ 香港
2: 香港 ‐ シドニー or ブリスベン
3: シドニー or ブリスベン ‐ クライストチャーチ
余談ですが、ここに2024年5月のニュージーランド航空航路があります。1972年から約50年という年月が流れていることを思うと、劇的に航路が増えたという感じがしないのは、Covid-19 による影響で未だ再開されていない航路が多いという事なのでしょうか?
また当時ニュージーランドに行くにはこのルートが一般的だったという推測を確認するように、ニュージーランド政府観光局日本支局長を1998年から務めた小林天心氏が綴った「海外旅行自由化50年の個人史」の中に、同氏が旅行代理店に勤務していた70年代半ばに「クィーンズタウンには、スキーツアーの下見に、ホンコン、シドニー経由ではるばる飛んだ」との記述があります。
JAL、シンガポール航空、カンタス航空は?と順に調べましたがどれもルートに大差ない感じでした。飛行機性能もキーだったようで、1960年代はアジアでの乗り継ぎはどの航空会社も香港をハブとし、70年代半ばを過ぎると、マニラが給油地としての機能が確立され、オセアニアへ行くために香港やシンガポールを経由する必要性が薄れたと思われます。
ハワイ経由
ルートを調べているうちに、第二次世界世界大戦が勃発した1939年にアメリカとニュージーランドを結んでいた航空会社があることを知りました。
それが当時、世界の航空会社をリードしていたパンアメリカン航空(通称パンナム:1991年に破産)
1977年の時刻表をThe University of Miami Libraries Digital Collectionsで見つけたので、これをみてみます。
すると、日本からオークランドへはホノルル経由で移動可能なことが確認できます。
時刻表を見ると、ホノルル ‐ オークランド間が週1便なので、そこさえ間違わなければアジア経由よりもスムーズに移動できたであろう事がわかります。
日本発 | ホノルル着 | 便数 |
18:00 沖縄 | 10:40着 | 週3便/水・金・日 |
14:55大阪 (東京経由) | 9:10着 | 1便/日 |
21:00東京 | 9:10着 | 1便/日 |
ホノルル発 | オークランド着 | 便数 |
23:55 | 6:40(+2) | 週1便/日曜日 |
一見すると沖縄からホノルルに直接飛んでいるのは意外性を感じますが米軍基地への人流・物流に関係がありそうですね。
これが当時一番便利なニュージーランドへの行き方のように見えますが、いつの時代も乗り継ぎが少ないほうが高値(根拠なし)のかなとも思いますし、ハワイは当時から日本人の人気の海外旅行先であり、また最も人気のハネムーン先という地位確立していた事を考えると、それら高額を払ってくれるハネムーナーと大量に座席を確保するパッケージツアー用に座席の多くは埋められたいたのではないかと想像します。
果たして吾妻さんがとったのはアジア経由かハワイ経由かどちらだったのでしょうね。
旅行のスタイル
1970年代はジャンボジェットの登場による大量輸送が可能になったことで、日本では旅行会社が団体パッケージツアーを販売する為に座席をまとめ買いすることで値段が下がり、一般庶民には夢でしかなかった海外旅行からお金を貯めれば行ける旅に大きく様変わりしていました。
吾妻さんはこのパッケージ旅行が主流であった時代に、圧倒的な高額となる、飛行機と到着後の宿、またはその後の旅行も自分が好きなようにアレンジする手配旅行を旅行会社を通じて予約したことが想像されます。
どれだけネットを探しても、ツアー旅行のお陰で値段が下がったという類の記事ばかりで手配旅行に関する記述を見つけることはほぼ出来ず、さらに日本‐ニュージーランド間のフライトとなると全くと言ってよいほど情報がでてきませんでした。
吾妻さんは値段の下がらない個人旅行で、しかも人気も低かった(=より費用が高額)であろうニュージーランド行きの飛行機を予約したであろう点から、非常に高額を支払う財を持っていた事が伺えます。
吾妻さを突き動かしたもの
本OUTSIDERSによれば、吾妻さんは日本の順応社会に不満を抱えていて、夫から暴力を受けていたという類のコメントを残していると同時に、人と関わることを最小限に抑えて一人で静かな暮らしを望んでいたそうです。
ものかんが想像するに、(まるで間違っているかもしれませんが)
国家・経済レベルでニュージーランドと日本が距離を縮め、高度経済成長でお金を持った日本人の海外旅行者数が急激に増え続けるなか、ニュージーランド側が日本国内にオフィスを設けて早い段階から観光誘致を行っていたのなら、吾妻さんが「世界の端にして人口が少なく美しい南海の楽園ニュージーランド」への憧れを持っていたかもしれませんし、また女性解放運動が隆起していたタイミングで創刊された女性総合雑誌「あごら」の読者だったとしたら、1893年に世界で最初に女性参政権を認めたニュージーランドと男尊女卑な風潮が強い当時の日本社会と比較する事があったかもしれません。
なにが吾妻さんを突き動かしたのかは本人のみが知るところですが、
幾つかの英語の記事ではこれは究極の引きこもりだとして「Hikikomori」とは何かを紹介したりしています。なぜか?それは吾妻さんが、
- ツアーが主流の時代に高額個人旅行で世界の端ニュージーランドまで飛び
- さらに現代もあまり人が住んでいないニュージーランドの端っこスチュワート島に渡り
- 危険をかえりみずスチュワート島内の誰も住んでいないような端っこまで移動し
- 洞穴を見つけて安住の地として腰を下ろしたから
後編では、そんな吾妻さんが辿ったニュージーランドを記していきます。
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