ニュージーランドのスーパーマーケット業界はFoodstuffsとWoolWorths New Zealandという二大グループによる寡占状態にある事は、この国に住む多くの人が知る有名な話です。
両グループ傘下には、以下のような店舗ブランドがあります。
Foodstuffs傘下 | Woolworths NZ傘下 |
---|---|
Pak ‘n Save | Woolworths |
New World | Fresh Choice |
Four Square | Super Value |
事実、人口約550万人のNZにおいて、この二大巨頭の影響が及ばない地域はほとんど存在せず、すでに市場は成熟しているため、両グループにとっては小規模市場ながら安定した市場環境が形成されています。
必然的に、二社間で熾烈な競争も生まれにくく、消費者が不利な立場に置かれていることは長年の懸念材料として国も認識しています。
最近も政府は第3勢力の参入を促す動きを見せていますが、外資系スーパーマーケットが買収による一気の参入ではなく、ゼロから割って入ってくる事例は、一般的なスーパーとは一線を画すCostco以外にみられていません。
多額の資本を投下して二大巨頭の牙城をゼロから崩す価値がこの小さな市場にあるのか? ー 答えは明白でしょう。
そんなNZでは、どのように初のスーパーマーケットが誕生したのでしょうか。
ニュージーランド初のスーパーマーケット
NZのスーパーマーケット史は100年に満たないもので、1958年にオークランドのOtahuhuで開業した店が、NZ史上初のスーパーマーケット1号店です。
そして、このスーパーマーケットを創業した人物の背景には、日本の行動が間接的に影響を及ぼした一族の決断がありました。
本稿では「NZ スーパーマーケットの祖」と呼ぶべき人物に焦点を当て、歴史を掘り下げていきます。
Thomas Henry Ah Chee
NZ初のスーパーマーケット第1号を創業したのは、1928年1月4日にオークランドで生まれたThomas Henry Ah Chee(トーマス ヘンリー アー チー)と2人のビジネスパートナーでした。
周囲からTomと呼ばれていた彼のフルネームThomas Henry Ah Cheeを見て、皆さんは彼の血筋を想像できるでしょうか。
イギリス系文化圏ではミドルネームは非常に一般的な命名慣習でしたから、Henryというミドルネームを持っているTomもやはりイングランド系?それともオランダ?アメリア?オーストラリア?
「NZ スーパーマーケットの祖」、Tomはオークランド生まれの中華系三世なんです。

アングロサクソンではなくシノスフィア! 華僑なのか!
さらに1928年生まれで既に三世とは華僑の凄さよ!
中華系とは言え、三世ともなると血が混じる可能性も高く、物事の考え方や外見もローカライズされているのでは?と思う方もいると思います。
しかし、少なくとも写真を見る限りTomの外見は完全に東アジア人のそれでした。

多様性を認め合う風潮の現代でも人種差別だとか、移民の就職は不利だとか低賃金だとかそういう話題も絶えることのない中で、100年近く前のNZの生活環境がTomにとって如何ほどのものだったのか想像するのも難しい。
さぞかし大変だったろうなぁ なんて想いを馳せながら調べてみました。
まず、現代でも中華系移民の多くは英語の通名を持つので、逆説的に3世でも中国名あるんじゃないの?という事で、Thomas Henry Ah Cheeの漢字名を調べてみると、彼が眠るMedowbankの墓地がネットに墓石の写真と彼の功績をあげていて、そこから中国語名が「陳麟智」だと分かりました。
この中国名を基にさらに調べて分かった生い立ちがこちら。

広東人のステレオタイプ「商売上手」「国際志向」「高適応力」「ネットワーク重視」全てを体現したかのようなChan Dah Cheeのストーリー。
先ほどは「Tomの生活が如何ほどのものだったのか想像するのも難しい」と書きましたが、難しい理由が「どれほど当時の環境が厳しかったか?」から「どれほど裕福な生活だったのか?」に切り替わる結果となりました。
Tom が Otahuhuで創業したスーパーマーケット
そんなNZ生まれの中華系三世Tomとパートナーが1958年にOtahuhuで開業したスーパーマーケットの名はFoodtown。



おおおっ! あのフードタウンか!
という方も、

…NZにこんなスーパーマーケットないよね?
という方も入り混じっていると思います。
Foodtownは2011年以前にNZに移り住んできた方には覚えのある店名だと思いますが、以降にNZに来られた方はリブランドされたCountdown をご存知ではないでしょうか。

え? Countdown? そんな店あったっけ?
という方は、さらにCountdownからリブランドされたWoolworthsならご存知でしょう。


このようにスーパーマーケットは何度かリブランドされており、その裏側では企業間の買収・統合が行われているため、こんにち豪州に本社をおき、豪州・NZ全国に展開し、さらに南アフリカへも広がるこの大手スーパーマーケットWoolworthsの源流がTomだとするのは正確ではないと思いますが、NZにスーパーマーケットというビジネスモデルを持ってきたのは紛れもなくTomです。
Tomの幼少期
オークランドで大成功を収めた中華系移民Chan Dah Cheeの孫Tomは、1928年1月4日にオークランドで、父Clement Calliope Ah Cheeと母May Yuk Dooの間に生まれた、いわゆるNBC (New Zealand Born Chinese)です。
彼が生まれた1928年頃のQueen Stの様子が分かる写真があったので貼っておきます。

この写真はQueen Stの下からAotea SquareとAuckland Town Hallに向かって1927年に撮影された写真。
現在Aotea SquareやCivic Theaterがある場所が空き地でQueen Stにトラムが走っている様子が見てとれます。
祖父と両親の動き
こんな風景の時代に生まれたTomですが、彼はこのようなオークランドの風景を自身の目で記憶に留める機会はなかったようです。というのも彼の両親は、Tomが生まれて3年後の1931年に、家族でオークランドから中国・広東省へ戻っています。

手前左には日本の商社、前田洋行の看板やカタカナでアサヒビールと書かれた看板も見える
ソース:https://picryl.com/media/the-sun-jp-17-309095
なぜClementとMay夫妻はNZを引き揚げたのかを正確に知ることは難しかったものの、時系列で追っていくと世界大恐慌の波に呑まれて広東省に戻った可能性が高そうです。
1920年 | ‐Clementの父、Chan Dah Chee オークランドを離れて広東省へ帰国 ‐事業はWilliam(兄)とClementが引き継ぎ、その後も拡大 |
1928年 | ‐ Thomas Henry Ah Chee 誕生 |
1929年 | ‐世界大恐慌のはじまり |
1930年 | ‐事業破綻 ‐同年、香港にてChan Dah Chee死去 |
1931年 | ‐Clement一家 オークランドを離れて広東省へ帰国 |
歴史のうねり 中国での時間とNZへの再移住
Tomは3~11歳にあたる幼少期の約8年を広東省で過ごしましたが、それも長くは続かず1939年に家族と共にオークランドへ再移住することになります。
なぜTomの両親はオークランドの再移住を決めたのか?
中国での成功または失敗、生活に馴染めなかった等の推測もできますが、実際には「時代がそうさせた」という事にほかありません。
Tomが生まれた1928年前後を起点にNZ、世界、そして中国の状況を見ていくことで、Tomの両親の行動背景がより鮮明に見えてきます。
時代背景 1 ーニュージーランドにおける当時の中国系移民差別の実態
1881年、NZは移民に対して初めて法的な制限をかける新法を施行しました。それがすべての「移民」に対してではなかった事がストレートに伝わる命名でズバリ「Chinese Immigrants Act(中国人移民法)」と、中国人のみを対象にした制限でした。
この法律により、中国人は入国時に10ポンド(当時の通貨はNZドルではなくポンド)の人頭税を課され、船ごとに中国人乗船者の数も船のトン数1船につき1人と制限されました。これにより中国人移民の数は大幅に制限され、経済的・社会的な差別の法的基盤が築かれました。
1899年の「Immigration Restriction Act(移民制限法)」では、読み書き能力テストの導入をはじめ、事実上アジア系移民の入国を制限する措置が拡充。
1907年にNZはイギリスの直轄植民地から自治領へと昇格し、国家としての独自性を強める過程で「南半球のイギリス」としてのアイデンティティを追求。この時期の政策や社会的雰囲気は、白人優越主義の影響を強く受け、中国人や他のアジア系移民に対する制度的な差別を正当化する要因となり、1908年の「Immigration Restriction Amendment Act」では、これらの規制がさらに強化され、アジア系移民全般への制限が一層厳しくなり、1939年に至るまで、こうした差別的移民政策は基本的に維持され続けました。
時代背景 2 ーニュージーランド経済・政治体制
1929年にアメリカの株式市場が崩壊して始まった世界大恐慌は、NZ経済にも深刻な影響を及ぼしました。ほぼ農業セクターに依存していたNZ経済は特に、主要輸出品であったバターや羊毛の価格が急落して大打撃を受けました。
当時のNZはイギリスの影響下にあり、通貨発行や金融政策もイギリスに依存していたため中央銀行制度は存在せず、銀行や金融機関は主にロンドン市場に依存していました。世界恐慌による資金供給の縮小で国内では貸し渋りや信用収縮が起き、その結果、企業や農家の資金繰りは圧迫されました。
こうした状況を受け、1930年から1935年にかけてはフォーブス政権による緊縮財政政策が実施され、財政が逼迫する中で社会的な困窮も拡大。そのさなか1934年には独立した金融政策の必要性からReserve Bank of New Zealandが設立されています。
このうねりの中でChan Dah Cheeが二人の息子に引き継いだビジネスも1930年に破綻しています。
時代背景 3 ー 世界経済
既に書いたように、Tomが生まれた1928年の翌1929年10月、アメリカで株式市場が崩壊し、アメリカ国内では銀行倒産や企業破綻が相次ぎ、失業率も急上昇し経済活動は著しく停滞。これが世界に波及してThe Great Depression=世界大恐慌を引き起こしました。
世界的な混乱は、NZを自治領としていたイギリスの経済にも大きな影響を及ぼし、1931年にイギリスは通貨の信用が担保されていた金本位制(通貨の価値を金に固定する制度)を離脱。しかし世界恐慌の影響で貿易が縮小し、資本流出が進んだことでポンドの価値は下落圧力を受けて下落。
さらにドイツでも深刻な金融危機が起き、世界各地で失業や社会不安が広がり、国際貿易は大きく縮小しました。
時代背景 4 ー 中国国内情勢
1880年代の中国は清朝末期の動乱期であり、西欧列強の侵略と国内の内乱により不安定な時代が続きました。1911年には辛亥革命により清朝が倒れ、中華民国が成立するも、その後、軍閥割拠の時代が続きました。
Tomが家族に連れられて中国に帰国したのが1930年だとすると、帰国してまもない1931年には日本の関東軍による満州事変が起き、満州全域が占領され、その後も日中間の緊張が続いて1937年には盧溝橋事件を契機に日中全面戦争が勃発しました。
そして日本軍は1939年10月にTomが住んでいた広東省広州を占領し、中国南部の重要な都市が次々と日本の支配下に入りました。
上記の時代背景4で触れたように、Tomが広東省に戻ってすぐに日中間の緊張が高まり、次第に戦争へと発展して激しさを増し、広東省も占領される自体となりました。
おそらくTomの父親であるClement Calliope Ah Cheeは、広州が占領される直前、海上ルートがまだ日本軍により封鎖されていないギリギリの時期に、少年Tomと家族を連れてNZ行きの船に乗り込んだか、または占領後、闇夜に紛れて持つものも持たず、脱出船に乗り込んだんじゃなかろうかと推測します。
この時のClement Calliope Ah Chee一家の様子がNZ側の政府記録に以下のように記されています。
The family returned to Auckland in 1939, virtually penniless.
The Japanese had occupied Canton and Clement lost all his assets.家族は1939年にほぼ無一文の状態でオークランドへ戻ってきた。
日本軍が広東を占領し、Clement はすべての財産を失っていた。
https://teara.govt.nz/en/biographies/6a4/ah-chee-thomas-henry
学生Tom はコミュ力のかたまり
NZ生まれとは言え、生後間もなくNZを離れて広東省で過ごしたTomは英語を話せなかったため、オークランドに戻って通い始めたRemuera Primary Schoolで最初の15ヶ月間は英語習得に注力したそうです。

「子どもの吸収力と言えども10歳を過ぎてから英語やローカル文化に馴染むにはそれなりに時間が必要だよね」という感覚を持ちましたが、歴史に名を刻むような人物は一味違いました。
Tomのコミュ力は驚くべきもので、英語力ゼロから数年で学校の生徒会長に登りつめ、白人の友人も得ることができたそうです。当時、大人社会では白人優越主義の色が濃かったことを考えると、子ども社会での彼の活躍は非常に稀有な例と言えます。
小学校卒業後はSeddon Memorial Technical College、Auckland University Collegeと進学していくも、1951年に父Clement Calliope Ah Cheeが死去したため、就学を諦めて父がNZ再移住後に経営していた青果店事業を引き継いでいます。

1930年に祖父の遺産とも言える事業は破綻し、さらに広東省からもほぼ無一文で1939年にNZに戻ったClementですが、死去する1951年まで青果店を2店舗経営していたそうです。どの程度が個人の努力で、どの程度が親族や華僑ネットワークの支援によるものかは資料が少なく、詳細は不明ですが逞しいの一言です。
ほぼ無一文でもすぐに起業したClement
Tomの父Clementは1939年に無一文に近い状態でオークランドへ再移住したのちすぐに青果店を開業していたようです。どうしてそんな事ができたのか?
正確な資金調達方法は不明ですが、当時NZにも華人のビジネスネットワーク「Bamboo Network」が存在しており、さらにローカル中国人会もありました。Chan Dah CheeやWilliamがオークランド在留中に会長や副会長を務めるなど、ビジネス面だけでなく華人コミュニティの中でも一家として強い存在感があったことから、1939年に帰国してすぐに何らかの支援を受けられた可能性が高いと考えられます。
また、毎朝、野菜やフルーツを市場から仕入れて自分のお店で販売するのが青果店ビジネスですし、すべて現金取引だった事を考えれば、手持ちの現金で仕入れられるものを仕入れ、それを数日以内にすべて売り切る小規模店舗で、人件費は家族経営で実質ゼロという低運転資金モデルだったであろうことが想像でき、従って初期資本も少額で済んだはずです。
Tom ‐ 事業経営のはじまり
父Clementの死により引き継いだ青果事業を売却して得た資金と他二人のビジネスパートナーの資金を合わせて、Tomは1958年にNZ初のスーパーマーケット「Foodtown」を創業しました。
当時、戦後のアメリカで経済成長とスーパーマーケット郊外大型化の概念が広がりつつあることを情報として持っており、車の普及が進むNZでも生活様式の変化が近く起こることを、Tomは敏感に感じ取っていたのだそう。
現代の視点からすれば、スーパーマーケットの開業自体で驚く人は少ないでしょう。しかし、1958年当時のNZでは、それがどれほど先進的な発想であったかを示す挿話として、家庭の冷蔵庫所有率を挙げておきます。 当時、NZの世帯の約半数にあたる54%しか冷蔵庫を持っておらず、ほとんどのキウイは必要に応じて地元の肉屋や八百屋、デイリーに毎日買い物に行くのが普通でした。そのため、大型店で一度にすべてを買い揃えるという発想は遠いアメリカで起きているTVの中の絵空事でした。
日本の影響とは
当記事のタイトル「知られざる日本の影響:NZ初スーパーマーケット創業の背景」でいう「日本の影響」とは、具体的には「日本軍による中国への進軍」でした。
1939年、日中戦争の中で日本軍が広東省へ進軍したことを、約20年後の1958年にTomがNZ初のスーパーマーケットを開業した事と直接結びつける事に懐疑的な方もいるかと思います。
しかし、日本が広東に進軍しなければ、一家が戦火を逃れてNZへ再移住することもなかった可能性は大いにあります。
もし再移住がなければ、TomがNZで起業する機会も得られなかったでしょうし、英語の習得や、NZでパートナーとなる白人の友人を得る機会もなかった可能性が高い。
そう考えると、日本の進軍がNZ初のスーパーマーケット創業につながる影響を与えた事を否定するのは難しいと思います。

ここで言いたいのは、戦争を肯定しているわけではなく、あくまで日本軍の進軍によって、Tomが家族に連れられてニュージーランドに再移住し、その後のスーパーマーケット創業の道につながる環境に置かれた、ということです。
もしTomが再移住しなかった場合、NZ初のスーパーマーケットは10年後に北島で展開していたWally and Hugh Morris兄弟が「NZ スーパーマーケットの祖」となっていたかもしれません。もしそうなっていたら、スーパーマーケットの登場は10年も遅れ、現代のNZ・オーストラリア、さらには南アメリカのスーパーマーケット業界も、Woolworthsを中心とする現在の姿とは異なるものになっていたかもしれません。
しかも影響はそれだけにとどまらず、次項で余談として触れる、NZのファーストフード業界も大きく変わっていた可能性があります。
余談1: McDonaldのフランチャイズ権も狙っていた
NZにおけるマクドナルド1号店は1976年6月7日にウェリントン近郊のPoriruaに開業しています。

ソース:New Zealand Government – NZHistory
このマクドナルドをNZに誘致して展開すべく、Tomは、アメリカのマクドナルド本社とフランチャイズ権の交渉をしたそうですが結果は実らず、権利は、Tomの同業他社として1967年からShopriteというスーパーマーケットを主に北島で展開していたWally and Hugh Morris兄弟が獲得しました。



本稿では詳細を省きますが、 Morris兄弟はアメリカのマクドナルド本社に乗り込んでNZ誘致に熱弁をふるったものの、「そもそもNZには人がいないだろ….」と無碍もなく断られる厳しい対応からの交渉開始だったようです。興味のある方は2011年出版、Rosemary Hepözden著の「Golden arches under Southern skies : celebrating 35 years of McDonalds in New Zealand」という書籍を図書館などで借りて読むと面白いです。

事業家 Tom のすごみ
Tomの事業家としての真価はここで終わりませんでした。
マクドナルドのフランチャイズ権を逃した翌年、1977年にオークランドのKelstonでNZのソウルフード「ミートパイ」のファーストフード店George Pie 1号店を開業し、その後32店舗まで事業を拡大しました。

Tomが第一線を退いた後、、1996年にマクドナルドが立地の利便性を理由にGeorge Pie事業を買収してGeorge Pieに終止符が打たれましたが、復活を望む声が根強かったことから2013年~2020年にかけてマクドナルド店内で販売されていました。

おまけ1: 年代ごとの出来事と各国の背景 (1867‐1958年)
本編上のできごと | ニュージーランド | 中国(広東) | 日本 | |
---|---|---|---|---|
1867年 | Chan Dah Chee広東省から金鉱を求めてオタゴへ向かうも船酔いに耐えられずにオークランドで下船してそのまま定住 | 独立国家ではなく、イギリス連邦自治領の時代。オタゴ金鉱での労働力不足を補うため、初の中国人鉱夫移民が到着 | 中国ではなく清の時代。第二次アヘン戦争(終結済)の影響が残り、国内は不安定。中国各地からの華僑の移民が活発化していた時期 | 大政奉還 江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権を天皇に返上。約260年続いた江戸幕府が終焉。明治維新への大転換点 |
1928年 | Thomas Henry Ah Chee誕生 | 総選挙 当時の二大政党Liberal PartyとReform Partyを抑えてUnited Partyが勝利。新たな政治の枠組みが誕生 | 蔣介石の国民革命軍が北伐を完了させて中華民国を統一 | 男子普通選挙が実施され、民主主義が進展。 |
1939年 | Thomas Henry Ah Chee NZに再移住 | イギリスの宣戦布告を受けて、英国自治領だったNZもドイツへ宣戦布告。第二次世界大戦に突入 | 抗日戦争(日中戦争)が激化し、抗日民族統一戦線が結成 | 1937年より日中戦争継続中 |
1951年 | Thomas Henry Ah Chee家業引き継ぎ | 議会が二院制から一院制へ移行。 NZ史上最大のWaterfront Dispute(港湾紛争)が起こり軍が動員 | 1949年に中華民国の支配が終焉。毛沢東による中華人民共和国の建国宣言。51年から「三反五反運動」の開始。 チベットへ進駐 | サンフランシスコ講和条約締結 ー 日本の主権回復へ。第1回NHK紅白歌合戦放送 |
1958年 | NZ史上初のスーパーマーケットFoodtown誕生 | エドモンド・ヒラリーが率いるNZの調査隊が南極点に到達。 NZ初のスーパーマーケット開業 | イギリスを15年以内に追い越すことを目標にした「大躍進政策」の開始と、それに伴う「四害駆除運動」の展開 | 高度経済成長期が本格化。1万円札発行。東京タワー完成。フラフープ大流行 |
おまけ 2: TomとFoodtownの動き (1958‐1988年)
1958年 | Tom Ah CheeとNorman Kent、John Brownの3人でFoodtown創業 |
1961年 | Brian Picotが資本注入して参画 Progressive Enterprisesを設立してFoodtownを傘下におく Tom‐Progressive Enterprisesの社長に就任 Foodtown2号店開店 |
1962‐80年 | 約20店舗+に拡大 |
1980年 | Tom‐FoodtownのCEO職を辞任 |
1982年 | Tom‐Progressive Enterprisesからも身を引き完全リタイヤ |
1986‐87年 | Tom‐保有株式売却 |
1988年 | 豪州Coles MyerがProgressive Enterprisesを買収 |