本稿は「女ひとり南海の楽園 ‐ 70年代後半NZの洞穴に住んだ日本人」と題した前半・後半の2部構成になっています。
前編を読まれていない方はこちらからご覧いただけます。
図書館から借りてきたニュージーランドの実話本「OUTSIDERS ‐ Stories from the Fringe of New Zealand Society – 著 Gerard Hindmarsh」に登場する、日本の海岸線沿いの村出身だという日本人女性にしてニュースサイトStuffに「スチュアート島の奇妙な洞穴女」という記事が書かれているKeiko Agatsuma (吾妻恵子 – 当時40歳)さん。
国会議事堂Beehiveの落成にイギリスから女王エリザベス2世(当時)が来NZして式典が行われた1977年の半ばから翌78年にかけてニュージーランドで次のような体験をされた方です。
- 3ヶ月の観光ビザを取得してクライストチャーチから入国
- 南島南部を一人旅 (ビザ有:3ヶ月観光ビザ)
- スチュアート島に滞在(ビザ切:不法滞在)
- スチュアート島ではほとんどの時間をMason Bayで過ごし
- Doughboy Bayへ移動して洞穴に住む
- 浜辺でうずくまっているところを猟師に発見され飛行機でBluffへ搬送
- 待機していた救急隊と警察が身元確認して不法滞在が発覚
- 在ニュージーランド日本国大使館職員帯同のもと日本へ強制送還
前編ではKeiko Agatsuma (吾妻恵子)さんが過ごした10~30代(1950-70年代)の日本とニュージーランド、そして世界の様子をできるだけ多くの写真と共に紹介しました。
前編を先に読むると、1950-70年代の世界、日本そしてニュージーランドがどのような状況だったのか。日本とニュージーランドのつながり、当時の金銭感覚などが分かり、これから後編として書き進めるKeiko Agatsuma (吾妻恵子)さんの状況がより分かりやすく読めるかと思います。
後半は本OUTSIDERSに記されている内容を基に書き進めていきます。
はじめに ‐ 時間軸について
本OUTSIDERSに吾妻さんは1978年8月にクライストチャーチ入りして1979年に日本へ強制送還されたと記されており、ネット上で見つけられる日本語および英語で書かれた他の情報ソース(ニュースサイトStuff含)も全て同様に書かれています。
しかし当ブログでは、吾妻さんご本人による強制送還後のコメントが1978年4月29日付けの朝日新聞に掲載され、その記事が1978年10月発行の雑誌「あごら」第19号の”新聞切抜帖”というコーナーに掲載されているのを確認しました。
雑誌「あごら」第19号は日本の国立女性教育会館リポジトリというウェブサイトからPDFで無料ダウンロード可能。吾妻恵子さんの記事はPDF168ページ「女ひとり南海の楽園」という見出しで確認できます。
日刊新聞が日付を誤り、「あごら」編集者もまた1年誤るなんてことは想像し難く、対して確認できた吾妻さんの記事のほとんどが本OUTSIDERSの内容をなぞったものだと思われる中で、肝心のOUTSIDERSの記述にはソースがないことから、本稿では吾妻恵子さんがクライストチャーチに到着したのは1977年8月であるとし、以下の時系列を基に記事を書き進めています。
1977年8月 | クライストチャーチ入 |
同年10月末迄 | 南島南部を中心に旅行 |
同年11月-翌年2月 | スチュアート島滞在 |
1978年3月 | 不法滞在発覚 インバカーギル1ヶ月拘留 |
1978年4月 | 日本へ強制送還 |
同年同月29日 | 朝日新聞に記事掲載 |
同年10月 | あごら第19号発行。 新聞記事の抜粋掲載 |
また当稿で使っているKeiko Agatsumaさんの漢字名「吾妻恵子」および年齢も朝日新聞に記るされていたものを採用するとともに、記事を書いた朝日新聞記者への想いも込めて「女ひとり南海の楽園」という見出しを当稿でも掲げさせていただいた事を併せてここに記しておきます。
南島観光の足あとは見つけられず
前編を読むと時代背景がイメージつくと思いますが、1977年当時日本人がツアーではなく単独で海外旅行するのは稀。さらに日本から直行便で行けないニュージーランドで長期滞在&観光しているというのは極めて稀だったと思います。
しかし、それでも彼女は一旅行者であり、行動を監視または後に捜査されるような立場でないため、どこに滞在し何を見てどう感じたのか、それらの記録は公になく全くもって不明。
本OUTSIDERSにはニュージーランド南島を3ヶ月旅行して過ごした後、スチュアートアイランド(以下、スチュアート島)に船で渡ったと記されています。
スチュアートアイランドはどこにある?
ニュージーランド南島の南端にブラフオイスター(牡蠣)で有名な町ブラフ (Bluff)があり、そこからフォーヴォー海峡 (Foveaux Strait) をはさんで30kmほどの沖にあるのが年間およそ3万人の観光客が訪れるというニュージーランド最南端近くのスチュアート島。
本稿を執筆している2024年の今、スチュアート島に行く移動手段は、主にブラフからフェリーに乗るか、インバカーギルからプロペラ機に乗るかの2択。
ブラフ‐スチュアート島間のフェリーは1940年代にはすでに航行していたようで、プロペラ機のスケジュール運行は吾妻さんがスチュアート島に滞在していたであろう1977年12月にスタートしたようです。
ただでさえニュージーランドは世界の端にあると言って過言ではないのに、
そのさらに端。そんな距離感を感じるスチュアート島ですから、バードウォッチングやトレッキング好きでない限り観光に行く機会を作れずにいる方も多いと思います。
何をしにスチュアート島へ行ったのか?
すでにスチュアート島に向かった時点で彼女のNZ滞在は3ヶ月を超え、ビザ切れの不法滞在状態だったことになります。
これまた本OUTSIDERSによると、
彼女は後に警察に捕まった際、日本国内の人の多さや、個人の感情や意見を抑え社会全体の調和を重視する適合主義的な傾向、そして夫から受けていた虐待などにより、日本に「自分の居場所がない」と感じていた様子のコメントをしていたようです。
これを受けて吾妻さんにフォーカスした記事や動画には、日本の「ひきこもり」を解説したうえで、吾妻さんは壮大なひきこもりをするためにスチュアート島へ渡ったと解説しているものもありました。
真相は本人のみが知るところで、これを探る手立ても見つかりませんでしたが、スチュアート島の玄関口であり、唯一の村であるObanにすら滞在することなく、吾妻さんは「やめておけ」というローカルの言葉に耳を傾けることもなくスチュアート島のさらに奥へ奥へと移動していったことからも、できる限り人と接したくないという意志があったのだろうと想像するに難しくないと思います。
本OUTSIDERSには、吾妻さんが「やめておけ」という言葉に耳を傾けなかったのは強い意志のみならず、ローカルの強いサウスランド訛の英語を理解できなかったのだろうとも書かれていました。
スチュアート島のどこへ向かったのか?
吾妻さんは、スチュワート島に到着するとObanに滞在することなく、島の逆側にあたるMason Bayを目指して移動開始。
そしてMason Bayで過ごした後に南下してDoughboy Bayまでさらに歩き、Stuffの記事タイトルにもなっている彼女が住み家とした洞穴、CAVEを見つけています。
1977年の当時、歩くためのルートがどれほど整備されていたのか?今と同じルートなのか?など分かりませんが、Googleマップを使い現代のトレッキングルートを基に計測すると Oban ‐ Mason Bayの区間は距離にして36.3km 歩き続けて9時間18分の距離だそう。
そしてMason Bay ‐ Doughboy Bay間は17km、4時間25分の距離だそうです。
しかし、さすがのGoogleもルートのコンディションを考慮した歩行時間にはなっていないようで、トレッキング案内をみると現代のトレッキング装備をした人々がObanからではなく、Obanから左奥へ進んだ先にある、多くの人がトレッキングの始発地点とするFreshwaterからMason Bay間を歩くと4-6日ほどかかるようです。
なぜ「やめておけ」と言われたのか?
危険な動物も虫もいないニュージーランド。
またニュージーランドの南端とはいえ、夏が近くまできている11月になぜローカルのニュージーランド人は吾妻さんにスチュワート島の奥へ進むことをやめておけと伝えたのでしょうか。
吾妻さんの持ち物
日本から観光でニュージーランドに来た吾妻さんは、観光者が使うスーツケースに加え、ブラフで購入した2箱分の食料をバックパックに詰め込んだ状態でスチュワート島に降り立ったと本OUTSIDERSに記されています。
連泊を要する島の横断にスーツケースをもって挑もうとしたなら、それだけでも「やめておけ」と忠告する気持ちはわかりますが、理由はそれだけではなかったようです。
スチュワート島 横断ルート
当時のことは分かりませんが、2024年の今、Mason BayとDoughboy Bayを含み、ぐるっと一周するStewart Island/Rakiura’s Southern Circuit Trackというトレッキングコースがあるので、これをみながら1977年の吾妻さんのあし跡を想像してみることにしましょう。
このマップはObanから左に進むコースと、その接続部分から丸く一周できるようになっているSouthern Circuit Trackが赤線で記されています。そしてDOC (Department of Conservation:ニュージーランド自然保護局)はSouthern Circuit Trackを4-6日間のコースだとしたうえで、次のように書き記しています。
人里離れた難易度の高いトレッキングコースで、高いレベルの体力、ルートファインディングの技術、バックカントリーの経験が必要な上級者コース
https://www.doc.govt.nz/globalassets/documents/parks-and-recreation/tracks-and-walks/southland/rakiura-northwest-southerncircuitbrochure.pdf
何かあった時に助けてくれる人はおらず、整備されていない手つかずの自然のなかで道なき道を誤ることなく進んでいける技術と経験が必要だというふうに読み取れます。
さらに推奨しているのが、Southern Circuit Trackのスタート地点近くへ行くためにObanから左に進むコースの回避(水上タクシーの手配を推奨)。
高難易度
Obanから左に進むコースは当然歩くことも可能ながら、回避の理由として、雨による氾濫が生じやすく、また地面が泥沼のようになっていて膝まで浸かる部分も多くある等から、そのコースも歩く場合はスケジュールも追加で2-4日みておいたほうが良いとしています。
Southern Circuit Trackのスタート地点に立つための追加日数が2-4日?
高いレベルの体力
膝まで浸かる泥沼ってさすがに大げさな・・・
と思い、スーツケースと食料を持って泥沼のようなコースを歩く女性のイメージをAIで仕上げた写真がこちら。
さすがのAIも「人はスーツケースをひいて泥沼は歩きません」とでも言いたかったのか、出てきたイメージは泥沼ではなく泥道でしたが、実際、こんな感じの道だったのでは?
それでも百聞は一見にしかずで、イメージの力は偉大ですね。
泥道だったとしても、このイメージを見ればそれだけで十分厳しそうだと言って良いでしょう。
「なんの罰ゲームなのか」と思わずにいられません。
よく心が折れなかったな
と思ったら、
実際に我妻さんがスーツケースを引きながら歩いたであろう
膝まで浸かる部分も多くあるコースの画像を見つけることができました。
こちらです。
↓
↓
↓
↓
はい、泥沼でした。
どっぷり膝まで浸かってます。。
まさに膝まで浸かってる泥沼じゃないですか。
うーん。
それでもいまいち信じきれません。この場所だけインスタ映えするスポットなんじゃないか?
こんなのも道と呼べるの?
と思ってしまうようなルートを歩き続けさせるトレッキングコースなんてあるんですか!?
Xでコメントや写真アップしている人いるのでは? と探してみました。
ボラさんのコメントとインスタをみたところ、「やっぱりAIが作ったイメージのような泥道じゃん」
というのが第一声。
blackcobraさんに至っては「ほとんど水の中歩いて~」って、流石にそれはないでしょ 笑
もはやネタレベル。泥沼もそうだけど、水の中歩いてるなら、そうれはもう間違いなくトレッキングじゃないよね。
残念なことにお二方ともXに写真がなかったため、
英語の投稿も探したらでてきました。
はい、水中でした。
しかも想像のはるか上を行く水深!
Helenさんは写真程じゃなかったと書いてますが。。。
これは道と呼べるのか? トレッキングコースなのか??
吾妻さん、スーツケースとか食料とか抱えてどうやってこれ歩いたの?
どうしてそこまでしてスチュワート島の端を目指したの!?
さらにこの深い泥沼は、所々でトラップを仕掛けられている状態になっている様子。
ちょっとしたぬかるみのように見える泥地では、こちらの女性が持っているトレッキングポールの8割相当の長さが沈んでいます。
たいした知識も経験も装備もないどころか、スーツケースを引いているうえにこんな道を一人で歩いていたら、歩き続けて大丈夫なんだろうか? さらに沈まないだろうか、怪我しないだろうか等かなり不安になるでしょう。
私の知識でどんなに頑張っても、AIに状態を正確にイメージ化させる事はこれが限界でした。
装備をきちんとした歩き慣れている人で、かつ複数人のグループで行動しないと体力的にも精神的にもあぶなそうな雰囲気が漂います。
ルートファインディングの技術
ルートファインディングの技術が必要だとブローシャには書いてあります。
進むべき道を正確に見つける技術ってことですよね?
つまり、道が途中でなくなったり、ものすごくわかりにくくなって彷徨う可能性あるよって話なんでしょうか。そうだとすれば、もはやトレッキングのコース然としているだけで、もうコースと呼んじゃいけないのでは?行方不明者とかいそう。
こんなルートを歩かないと島を横断できない事を知っているローカルだからこそ、スーツケースを引きずる吾妻さんに「やめておけ」と忠告した。
そりゃ、こんなの知ってて、スーツケース持っていこうとしている人がいたら止めるでしょ。
むしろ忠告せずに最悪な事態が生じてニュースにでもなったら強烈な罪悪感を持つだろうレベル。
しかし
「やめておけ」の理由は吾妻さんの持ち物とルートだけではなかったようです。
天候
ニュージーランドの天気予報サイトでスチュワート島の観測期間平均気温と降雨量をみると、吾妻さんが島に到着した11月のHistorical averageは最低1.5°、最高23.6°、降雨量は92.8m。
寒暖差が激しいので、日中は汗だく、または雨でずぶ濡れになりながら歩き、夜は鼻息まで白くなり、地面からの冷えが一層強まり、霜が降りたり水が凍ることすら有り得る状況。
現代にあるような防水性が高く保温に優れた機能性かつ薄手のウェアもない時代に真夏の日本からニュージーランドにきた吾妻さんは、果たしてどれほどの防寒着を持っていたのか。当然ニュージーランドでそれらを取り揃えることもできますが、前編で書いたような通貨価値の時代です。
条件は極めて厳しい。厳しすぎるように思えます。
この期に及んでは、吾妻さんに「やめておけ」と忠告したローカルの方、むしろ強引にでも引き止めずによく行かせたなと思ってしまう。
背丈
本OUTSIDERSには吾妻さんの身長は5.1~5.2フィートと小柄だったと記されています。
つまり155-158センチ程の背丈です。
吾妻さんは1978年に40歳。日本の学校保健統計調査の年次統計によると1955年に17歳だった日本人女性の平均身長は153.2センチ です。男女ともに17歳以降に身長が大きく伸びることはあまりないとするなら当時の日本人女性としては吾妻さんは平均よりも背が高かったようです。
その吾妻さんがスーツケースを引きずりバックパックを背負い、上述した厳しい条件で島の横断に向かうにあたり「やめておけ」と忠告したローカルの方はなぜ強引にでも引き止めなかったのか?
理由が1行書かれていました。
「彼女は体格がよくタフな印象だったから」
この写真は吾妻さんが強制送還される際の写真。
これ1枚で判断するのは難しいですが、「体格がよくタフな印象」を受けるでしょうか?
「珍奇なアジア人がスーツケース引きずって横断に向かったぞ!笑」
というゴシップネタでしかなかったんじゃないかと邪推したくなります。
Mason Bayでの日々
吾妻さんがどれほどの苦労したかは知る由もなく、また荷物全てをキープしたままMason Bayにたどり着いたのかも分かりませんが、無事にたどり着いたことだけは間違いなく、Mason Bayで吾妻さんはHutに滞在していました。
このような僻地にHutが複数あるとは考え難いので、1977年の当時、吾妻さんが利用したのは、まさに1980年に撮影されたとされる、この姿をしたMason Bay Hutでしょう。
Mason Bay Hutは1990年代に改修工事が行われているので現在のHutと写真のHutは異なりますが同じ場所に今も建っているようで、2024年の時点では利用に予約は不要で大人1泊$10。20名分のバンクベッドと薪ストーブが用意されているようです。
吾妻さんが宿泊していたときのHutの様子はこの写真しか得られませんでしたが煙突のようなものが見られるので薪ストーブは付いていたかもしれません。利用者も現代ほど多くなかったでしょうし無料だった可能性もあります。
しかし、なぜこのような僻地のHutに吾妻さんが滞在していたことが分かるのか?
Te Aika夫妻
Mason Bayで吾妻さんは、Hutの近くで農場を営んでいたTe Aika夫妻(TimとNgaire)とその子どもたちに出会い、交流を持ったのだそう。
この家族はニュージーランド最南端のファーマーであり、なんと、のちにスチュワート島最後のファーマーとしてニュージーランドの国内ニュースや国の公式記録にも残っている、ある意味で有名な家族です。
当ブログで調べたところTim氏は2021年10月にお亡くなりになられた事が訃報として新聞に掲載されていました。2024年の今ご存命なら90歳位のお歳かと思います。
僻地であるため整備された道もなく、道がなければ車もなく、周囲に店もなければ隣人もいない。
人がいなければ病院も学校も水道電気電話もなく、それらがないので家(ファーム)にもテレビはもちろんのことラジオもなければ冷蔵庫もない
そんな環境で生活していたTe Aika一家と吾妻さんは波長が合ったのかもしれません。
吾妻さんはMason Bay滞在中、この一家のファームの手伝いをする事もあれば、Mason Bayのどこでアワビや貝が取れるのか、どう取るのか等といった情報と獲り方などをTimさんから習ったり、家族だけで行われた子どもの誕生日パーティーに参加したり、時にはTe Aika家に泊まるなど、付かず離れずの距離感で交流があったようです。
Doughboy Bayでの生活
そんな彼女は冒険心の膨らみとともに行動範囲をDoughboy Bayにまで広げ、そこで当稿も含め様々な記事にも書かれているCaveを見つけたそうです。
吾妻さんが過ごした洞穴ほらあな
これが吾妻さんが過ごし、現在もDoughboy Bayにある洞穴の写真。
写真では分かり難いですが本OUTSIDERSによると、この洞穴に奥行きはあまりないものの入口の高さは4メートルもあり、南側にひさし状に張り出した岩のおかげで雨をしのぐにも適した形状だそう。
また吾妻さんが日本へ強制送還された直後にこの洞穴を訪れたニュージーランドで最も有名なトランパーの一人Paul Kilgour氏が当時の様子を以下のように語ったそうです。
洞穴の前はぬかんでいるため漂流した木の板を集め、その上に魚網を敷いて滑らないようにしてビーチへの道としてあった。また洞穴の周りには、色とりどりのブイを木から吊るして飾り、奥には流木と漁網で作られたベッドがあった。そして洞穴の中で焚く火の煙がまっすぐ上に上がって洞穴の外に出るように設置されていた。
本OUTSIDERSより
本OUTDIDERS然りニュースサイトやネット上でも、吾妻さんが寝泊まりするのに適した洞穴を発見し、ここで快適に過ごせるようにしたという印象をうける記述が多いですが、Paul Kilgour氏が見た洞穴の様子も、吾妻さんが全て作りあげたのではなく既にその一部または全部が出来上がっていたと私は考えます。
実のところDoughboy Bayには・・・
それは、Mason Bayで吾妻さんと交流したTim Te Aika氏は、後にニュージーランド ジオグラフィック2002年3-4月第56号の記事でインタビューを受けた際、吾妻さんを”Cave Woman”と書き立てたメディアを嫌悪しているコメントの一部として下記のように発言しているからです。
彼女をCave Womanと称するストーリーには、当時Doughboyに滞在する誰もが洞穴に寝泊まりしていた「当たり前」が正確に反映されていない
New Zealand Geographic – BEACHCOMBERS AND CASTAWAYS
1977年当時Doughboyには宿泊施設が一切なかったので、そこに滞在する誰もがCavemanであり、CavewomanだったとTim Te Aika氏は言っているのです。
またDoughboyで寝泊まり可能として知られている洞穴の数も、吾妻さんが使ったもの1つだけである事を鑑みれば、吾妻さんが過ごした洞穴が、Doughboyに滞在する誰もが寝泊まりしていた洞穴だったということになます。
Doughboyに就寝可能な洞穴があることはTim Te Aika氏含めトレッカーやハンター等に知られた場所だったということなら、吾妻さんも行動範囲を広げてDoughboyに行った際に、偶然住めるサイズの洞穴を発見したのではなく、「あそこに行けば住める洞穴があるぞ」と、Tim Te Aika氏から話を聞いて赴いたのかもしれません。
そのような洞穴であれば、長居する人は稀だったかもしれませんが、利用する人々が少しずつ持ち込んだ物を後の利用者のために置いていったり、使えそうな漂流物を拾ってきたり、ベッドらしきものを作って置いていくなど環境を改善させるなどして、吾妻さんが洞穴にたどり着いた時には既に何某かの住環境があったと考えるほうが自然。
そして現在は、この洞穴から100メートルほどの場所にDoughboy Hutが建てられているにも関わらず、今もなおこの洞穴を寝床として利用するトレッカー等がいるのだそうです。
洞穴での滞在期間
Cave Woman として後々にまで語られる吾妻さんですが、Tim Te Aika氏がCave Womanと称するストーリーに嫌悪感を抱いていたもう一つの理由が彼女の滞在期間。
Cave Woman と書くと、まるで長いこと住んでいたような印象になりますが、我妻さんがDoughboyの洞穴に滞在したのはおよそ1週間程だったようです。
6ヶ月以上にもわたるニュージーランド滞在期間のなかの1週間です。
終わりのはじまり
我妻さんが、洞穴にしばらく滞在するつもりだったのか、さらに奥へ進むつもりだったのかは定かでありませんが、強烈な腹痛が彼女を襲いビーチの端でうずくまっていたところを幸か不幸か、偶然、鹿狩りに来ていたハンターたちが見つけたのが、彼女の南海の楽園ストーリーのエピローグの始まりでした。
スチュアート島は今も昔もハンターに人気の場所だそうで、ブラフで水上飛行機をハイヤーしてビーチ発着していたようです。1977年の当時も、鹿狩りに来ていたハンター達が、迎えの水上飛行機が来るのをDoughboyのビーチで待っていた際、端で明らかに調子が悪そうに腹を押さえてうずくまっている吾妻さんを見つけたのだそう。
吾妻さんが洞穴で1週間を過ごした時点でブラフを離れる際に購入したという2箱分の食料は底をついたか、残っていたとしても長期保存が可能な缶詰などだけだったと思われるので、洞穴での生活は必然的に貝や魚を獲って食べることが多かった筈なので、それらシーフードにあたった可能性がありますね。
強制送還されるまで
ブラフへ搬送される間にハンターたちは航空無線で体調不良者を保護して連れ帰っていることを伝え、警察と救急隊を待機させていたようです。よほど状態が悪かったのか、我妻さんは到着後さらにインバカーギルの病院まで搬送されて入院します。
当然、僻地のビーチで一人うずくまっていた体調不良のアジア人の身元確認がされ、警察は吾妻さんが所持していたであろうパスポートから身元がわかり、同時に不法滞在者である事も分かったでしょう。
今も昔も不法滞在者が強制送還になるという話に驚きはないと思いますが、前編で書いたようにこの時代のニュージーランドは、不法滞在者(結果的には主にポリネシアの人々がターゲットにされていたようだが)を排除するDawn Raidと呼ばれる黒歴史の最中です。
もしかすると辺境の地で倒れていた不法滞在者も早く国外に追い出そうという動きもあったかもしれませんが、吾妻さんは不法滞在で起訴されて、インバーカーギルの110 Leven Street, Avenalに今もあるSalvation Armyの保護下で約1ヶ月間、裁判所から判決が出るまで施設に滞在して審問を受けるなどして過ごしたようです。
Spargo夫妻
我妻さんが滞在したインバーカーギルのSalvation Armyは当時Spargo夫妻(IanとHelen)が管理していましたが、ここでも我妻さんは管理者夫婦と打ち解けることができていたようで、監視下にあるとはいえ、「この人は逃げない」し「法的に認められない滞在期間を過ごしただけで、悪行を働いた罪人でもない」という認識を夫婦は持っていたようで、夕暮れ後に散歩に外へ出かけることなど、本来は許可されないようなことにもSpargo夫妻は何も言わず、吾妻さんの自由にさせていたようです。
強制送還された日
ニュージーランドにとって不法滞在者である吾妻さんを強制送還するための最後のひと仕事が、彼女を日本へ送還する日に彼女を空港まで送り出国させて、飛行機に乗せることです。
この作業でニュージーランド警察や移民局が最も避けなければならないのは吾妻さんが「脱走」する事なので、これを予防するために「囚人護送車」が用意され、それに乗せられる吾妻さんは「手錠」をかけられることに。
しかし、警察に我妻さんを引き渡すSpargo夫妻は、「彼女は罪人ではない」として彼女に手錠をかける事を断固拒否し、警察を困らせたそうです。
ルールはルールと突き放されて手錠をかけられて連れて行かれる吾妻さんの姿を想像しましたが、そこは時代なのか、That’sニュージーランドなのか、または吾妻さんの人徳なのか。
結局、Spargo婦人が吾妻さんに同行して空港まで一緒に行く事を条件の一つにして手錠をかけないまま移動したそうです。
ここでいう「空港」とは国際空港の事なので、つまりSpargo婦人は吾妻さんが罪人の扱いを受けないために実費でインバカーギルの空港からクライストチャーチまでの国内線を吾妻さんと飛んだのだと思われます。
当ブログで調べたところIan氏は2018年8月、Helen氏は2022年7月に78歳でお亡くなりになられた事がSalvation Armyの機関誌に掲載されていました。お二方は生涯をかけてSalvation Army職員として各地の施設で務めたようで、吾妻さんと出会ったインバーカーギルでは1976-79年まで務め、その後はオーストラリアで2年、ニュージーランドに戻り各地のSalvation Army施設を管理して回っていたようですが、ご夫妻が吾妻産を回想しているようなインタビュー等は見つけられませんでした。
迎えにきた兄
本OUTSIDERSによると、吾妻さんの兄がクライストチャーチまで彼女を迎えに来たそうです。
この兄については、殆ど触れられておらず名前も何も分かりませんが、本の中では「礼儀正しく落ち着いていた」と描写されています。
そりゃ遭難救助された人ですら、ありがとうではなく、「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」と言う国民ですから、さぞかし神妙な面持ちであったろうし、強制送還にあたり日本大使館職員も同行したようですから、むしろ描写された以外のイメージは湧きません。
加えて前編で触れたとおり、当時、ツアーではなく、個人でいく海外旅行はまだ高価で、さらに日本からニュージーランドに来るための移動にかかる時間も相当なものだった時に、時間とお金の問題をクリアして急遽クライストチャーチに妹を迎えに飛んで来れるだけでなく、同行職員の往復にかかるすべての費用を負担できる(しなければいけない)経済力を持っていたと推測できます。高度経済成長を続ける中で長期休暇など夢のまた夢だったのではないか?と考えると、吾妻さんの兄は時間に融通がきく事業経営者だったのかもしれません。
当時の為替相場で吾妻さん御本人がニュージーランドで働かずに6ヶ月以上も滞在していた事と併せて考えても、経済的にゆとりがあったのであろう事が垣間見えます。
吾妻さん 帰国後
本OUTSIDERSには、私が日本語と英語でどれほど探しても一切見つけられなかった吾妻さんが日本に強制送還された後日談が数行記されています。
個人の国際通信手段は主に手紙か超高額な電話のみという時代に、旅行者だった吾妻さんが帰国後の様子を幾度とやり取りするような人物がニュージーランドにいたのか疑問を感じずにはいられないというのが正直なところ。
事実だとしたら、Mason BayのTe Aika夫妻くらいしか該当しそうな人物が本OUTSIDERSに出てきませんが、そのTe Aika夫妻にしても、我妻さんを懐古するインタビューはあっても、強制送還後も連絡を取っていたという類のコメントは一切見つけることができませんでした。
それによると、彼女は日本でアニメのセル画を仕上げる仕事を得て社会復帰したというのです。
吾妻さんが帰国後(=1979年以降)にアニメ制作に携わっていたという話が本当なら、
現代でも知っている人が多そうな下記のアニメのセルを仕上げていてエピソード終了時に流れるエンドロールに名前が載っていた!
なんてことがあり得るかもしれません。
1979 | 1980 | 1981 | 1982 |
機動戦士ガンダム | どらえもん | うる星やつら | パタリロ! |
宇宙戦艦ヤマト | ゲゲゲの鬼太郎 | じゃりン子チエ | あさりちゃん |
ベルサイユのばら | あしたのジョー | Dr.スランプ アラレちゃん | 超時空要塞マクロス |
実のところ、吾妻さんは・・・
吾妻さんのニュージーランド滞在を簡素にまとめると、
ニュージーランド南島を旅行した後、スチュワート島へわたり、さらに奥へ奥へと進み、洞穴で寝泊まりしている時に体調を崩し搬送された先でビザ切れが発覚して強制送還。
そして、日本へ強制送還され帰国後に公で唯一確認できた吾妻さんご本人のコメントがこちら。
「こんなきれいな国で生活していただけ。なぜ警察に捕まったのかわからない」
(1978年4月29日付朝日新聞掲載 ‐ あごら19号 (発行1978.10.31)の新聞切抜帖コーナーにて確認)
私のフィーリングを述べるなら、吾妻さんは本OUTSIDERSやStuffの記事、他の英語ブログなどで書かれている「究極のひきこもりでニュージーランドの果でで洞穴に住み着いた日本人女性」ではなく、洞穴に住み着くなんて考えてもいなくて、単なる旅行の通過点だったのではないか?というもの。
英語は不得意でローカルが何言ってるのかよく理解できず会話するのも一苦労。ビザのこともよくわからないが、男尊女卑がなく、自然豊かなニュージーランドでの旅行は楽しい。周りの人が何言ってるのかわからないからダンマリ決め込むこともあるし、わからなすぎて落ち込んで一人になりたい時もあるけど、お金が続く限り旅をしながら住んでみたい。
という程度だったのでは?
そもそもスチュワート島に行く前も3ヶ月間、南島を旅行していたそうですし、その間も人を避けるなんて不可能だったでしょうし、交流があったからこそ地球の歩き方ニュージーランド編がまだ出版されていない時代でもスチュワート島への渡り方を含めの情報を仕入れられたはずですし。 実際にTe Aika夫妻を筆頭にローカルの人々とも交流してますしね。
ニュージーランドはどう?と聞かれれば、高度経済成長真っ只中の「東京ように忙しくなく公害もない手つかずの自然が広がるニュージーランドは一人になれる時間も場所もあって最高。息苦しい東京には戻りたくない」くらいはリップサービス含め言っていた可能性も大いにあると思うんですよね。
真実は本人のみが知るところですが、皆さんはどう思われたでしょうか?
本OUTSIDERSは最寄りの図書館まで取り寄せて借りることができます。
吾妻さんのストーリーは複数ある中の1つで、ページ数にして7ページと少ないので、興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。
おまけ:吾妻さんのストーリーに影響をうけた作品
そんな吾妻さんのニュージーランドでのストーリーにインスパイアされて作られた小説や映画があるそうなのでご紹介しておきます。
ニュージーランド人作家Peter Wellsの短編を収めた本 Dangerous Desires(1992年にNew Zealand Book Award受賞)の中にある「Of Memory and Desire」という短編。
そして、Of Memory and Desireを基にニュージーランド人映画監督Niki Caroがデビュー作として1998年に手掛けた映画が Memory and Desire。
私は短編も映画も観ていないのですが、吾妻さんのストーリーにインスパイアされたというだけあり、映画ポスターも日本人女性がビーチでラゲッジを引きずるっていたり洞穴で暮らすなど吾妻さんを連想させますが、あくまでも「インスパイアされた」だけで内容は吾妻さんとは関係なく、日本人カップルがNZに来て洞窟で~ と話が続くようです。
下記に動画を貼っておきますが映画はR16指定だそうで性描写がありますのでご留意ください。
ちなみにNiki Caro監督は後に映画Whale Rider(邦題:クジラの島の少女)を手掛けて様々な賞をノミネートおよび受賞したことで一段と知名度を増した監督です。
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